2010年3月14日
花粉症の季節であります
朝起きた瞬間にそれは「来てる」とわかる。
わかるがしかし、不意を突かれたのは言うまでもない。
まるで未知のなにがしかに身体の内側から浸食されているような感覚である。それはすでに鼻はおろか目や肌にまでおよんでおり、さらに刻一刻とその勢力を拡大させつつあることが嫌でも感じられる。
まいったな。やつはどうやら本気みたいだ。
しかしぼくはあわてずにベッドから起き上がり、手早く鼻セレブをひとつかみする。慣れたもの特有の落ち着きはらった行動であるかのよう。そしておもむろに軽めのひとかみののち、儀式的につぶやきを加える。
だいじょうぶ。思ったほどではない。だいじょうぶ。
無論ほんとうはだいじょうぶではないのだ。しかしそういった自己暗示は時にいくぶんか心を落ち着かせる。平常心を求めたときすでにその者の平常心は失われ ている、というが、鼻をかむときに鼻水を残そうと考える者もまたいないのだ。今かみ終えた鼻から脊髄へと伝わる「またかんで」の指示。繰り返しのはじま り。終わりなきゴールへ走り出す矛盾。だからこそ、だからこそ、いま心の底からぼくよ、思い込むのだ。
だいじょうぶ。花粉はそれほどでもない。だいじょうぶ。
と、一瞬。確かに訪れた静寂。高原の岩清水andレモン。
だがしかし。やはりもろくも崩れ去る決壊。あらがえぬ疾患の生理現象。
ふたつかみ目の鼻セレブに最早余裕はない。二枚とりである。
軽かみなどしていた頃が懐かしい。いや、懐かしむ余裕も今はないのだ。ならば渾身のストローク!鬼は外!悪夢よさらば!
ここで決して忘れてはならないことは、全力での鼻かみの勢いそのままに目までかかないことだ。目かゆは恐ろしい。一度かいてしまったが最後、よせてはかえ すのだ。スーパーマリオでいうところの4−4である。かいた途端に次のかゆみがやってくるということはつまり、完全なる永久機関である。むしろ美しき正三 角形である。
しかし、かいた。かいてしまったのか。かいた。かゆみに理由あれどかいてしまったことに理由はない。そうか、ならばしかたがない。この場合の対処もすでに 心得ている。刺激的な目薬はむしろ逆効果を生む。ここで真水の登場である。水道水。いや、ほんとうはきっともっとしかるべき薬があるのであろう。しかし今 そのことを言ってなんとなろう。時は来てしまったのだ。いいじゃないか水道水。洗い流そうよ水道水。じゃぶじゃぶじゃぶじゃぶ。
再び確かなる静寂。しかしそれも一瞬のこと、かゆみはさらに続く。これこそスパイラルたるゆえんである。
うーー。
思わず天を仰ぎもらすうめき声。どうしようもない状況を受け止めるためのうーー。それはまた、本日の花粉の強さを認めてしまったことにもなるのだ。こぼれ落ちる涙はくやしさか、かゆみか。かゆみだ。
しかしくやしい。これぞ自業自得の極みである。予防が大事であることは知っていたはずだ。やつは強弱こそあれ毎年のようにやってくるのだから。いや、毎日飲むといいらしいヨーグルトは毎日飲んでいたのだ。4日前から。おそすぎた。
ここで一句
はなのこな はなにこないで はるよこい
優雅である。そしてダジャレである。
このあとさらにじんましん、発熱と続くのであるが書くのはここまでなのである。
かふんこまるよう。ライブたのしみだよう。
投稿者 :ナカヤン |



